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とあるご主人様の記録の書。Notionで作成してます。 https://tomo-notion-blog.pages.dev/

🧱 人生の壁

養老孟司の人生観

バカの壁等の著書でも有名な養老孟司の本を読んだ感想です。

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食事をする、体を動かす、睡眠をとる、といった生き物としての基本のことです。そこがきちんとしていることが重要であって、お金の知識も英語の能力も早くから身につけても人生にとって大した意味はありません。
他人が評価するスキルであって、本当の意味での生きるスキルではないと思います。本当の力とは日常の経験から身につくものではないでしょうか。

英語やプログラミングを小学校から学ぶようになった件について。

私もプログラミングやるならタイピングを学んだほうがいいかなと思います。

現代農業の常識としては、農地を手入れしたほうが良い結果が得られる、ということになっている。でも、土の方からすればいい迷惑で、人が手を加えると、もともと持っていた構造が壊れてしまうことに繋がる。その構造を維持しているのは菌類です。細い紐のような菌が土の中で形成しているネットワークが壊される

子どもの育て方についての話です。これだけ手をかけたからいい子になった!と親も教育関係者も思いたいが、現実はコントロールできるものではないということです。

今の人の不安というのはずいぶん贅沢だなと思ってしまいます。結局のところ、満足の基準を上げれば不安は常に付きまとうのではないでしょうか。

昔は今日食べ物があるかどうかが不安の基準だった、という例を出し、どこまで言っても不満はつきまとうということです。

ドイツの若い哲学者で、トーマス・メッツィンガーという人がいます。彼は著書の中で、自己とはトンネルである、と述べてます。(中略)要は、自分なんて空っぽだというのです。面白いのは、この考えが老子と共通しているたんです。老子は、部屋は中が空でないと使えないと述べています。(中略)その中身が詰まっているほど充実しているというかんちがいがそこから生まれます。確固とした「個性」があり、それこそが自分の本質だと考えている。でも、実はそうではなくてもあるのは壁だけ、確実にあるのは身体の方です。

最近の哲学者の主張が仏教の考え方と一致しているという話。中身が詰まっているから充実しているのではなく、あるのは壁=身体だけ。仏教用語の「空」ということですね。色即是空。

自分の重みを必死にアピールしているのです。前提には、自分には何らかの重みがあるはずだ、あるべきだという考えがあるのでしょう。

中身が空っぽの人こそ、自分の重みを主張したくてとんでもない事件を起こしてしまう。京アニの放火事件の話を例にしています。

他人と接点を持つのは煩わしいことですが、その御蔭で自然と自分の重みをかんじることができるのです。お祭りのときに「お前が抜けると、神輿を担ぐときに他の人が重くて仕方ないだろう」と言われる。つまり他人と付き合えば、自分の存在には自然と重みを与えられる。しかし他人との関係がきはくになればなるほど、自分でかってに重みを作りたがってしまう

自分に重みがつくとしたらスキルではなく他人との関係性にしかないということです。

多くの場合、頼み事や相談の類は煩わしいものです。でも、それは周りが自分に対して重みを持たせてくれているのだとも言える。また、煩わしく感じるのは実は往々にして、自分の体力の問題です。体力があれば、大抵のことは対応できる。だから若いうちは煩わしいことに嫌というほどかかわっていいのです。恋愛や結婚、子育ても煩わしいに決まっています。でおもわかいうちは体力があるから向き合える。(中略)しかし、程度の問題はありますが、体力のあるうちは、煩わしいことにかかわっていたほうが幸せなのです。

体力の重要さが見えますね。筋トレや運動超大事。

そういう意味では安易に準備しないということも大事です。そもそも人生とはそういうものでしょう。準備できないこと、予期しないことが次々目の前に表れて、それに対処せざるを得なくなる。人生はその繰り返しなのです。他人の物差しで評価されるスキルは案外、役に立ちません。

突発的な対応力こそ生きるスキルである。

一つの考え方を「絶対に正しい」と自分の中で定めてしまうと、それ以外の考え方を理解できなくなる。認めることができなくなる。それどころか、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまう。

視野と視座を広く持たないとならないということ。

近頃は、SDGsが大切だと言って、世界中でそれを理想にしようという話をしています。理想の一つとして自然の中で暮らす人達を持ち出す。「こんなふうに環境に優しい生活を目指しましょう」しかし、そういう人たちの写真パネルが飾られているのは、完全に自然と切り離された国際会合の場です。ニューヨークのコンクリートでできた立派なビル内のエアコンが効いた部屋で、SDGsを話し合っている。とても本気とは思えない。そのこと一つとっても、用意には昔の世界に戻れないことはあきらかではないでしょうか。(中略)私は立派な標語を並べているのは、やる気がない証拠だと思っています。かつての一億玉砕、本土決戦というのと大差ない。

SDGsは欧米諸国が都合の良いように作った枠組みでしかないと。

ロシアウクライナやイランイスラエルの情勢を見ると、国際的な取り決めは名ばかりで結局破られることが多い印象です。

多様性は自然の中で感じるものであって、多様性などという一つの単語でまとめてしまえるものではありません。感覚を言葉で簡単に置き換えられると思っているのが、現代の人の大きな勘違いなのです。

多様性という一言で表現する裏で何を切り捨てているのかを意識しなければならない。

本当にメリットが明らかな時ならば、欧米だろうが日本だろうが、同じような選択をするでしょう。問題は、メリットとデメリットが六対四といったときにどのような選択をするのか、ルールを維持するか変えるか、ということです。

日本はこのとき空気を優先する国だと。

実のところ、人生相談に対する私の答えはほとんど三つです。とらわれない、偏らない、こだわらない。

本書の肝だと思います。中庸に生きる。

本日のご帰宅

ほなまた!